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魏(ぎ、、220年 - 265年)は、中国の三国時代に華北を支配した王朝。首都は洛陽。曹氏の王朝であることから曹魏、あるいは北魏に対して前魏とも(この場合は北魏を後魏と呼ぶ)いう。 45年間しか続かなかった王朝だが、魏・蜀・呉の戦国史を描いた三国志(『三国志』・『三国志演義』など)などで後世に伝わり、日本で魏は卑弥呼を記述した「魏志倭人伝」で知られる。また、昭和に吉川英治が著した『三国志』を始め、この時代を描いた小説は今なお日本で人気があり、そのため知名度も高い王朝である。 == 歴史 == === 曹操 === 後漢末期、黄巾の乱(184年)が起きた後、皇帝の統制力は非常に弱まり、董卓の専横が始まるも部下の呂布に殺され、群雄割拠の状態となる。その中で台頭したのが曹操であった。反董卓を掲げて挙兵したことを皮切りに活動を開始した曹操は192年、兗州牧となった。その兗州で青州から来た黄巾賊の兵30万人、非戦闘員100万人を投降させて自分の配下に納めた曹操は急激に勢力を拡大していった。196年、曹操は屯田制を開始し、流民を集めて耕す者がいなくなった農地を耕させた。 曹操は献帝を自らの本拠である許昌に迎え入れ、董卓の元配下であった・呂布・張繍などの勢力を滅ぼし、200年には官渡の戦いで袁紹を破り、207年には袁氏に味方する烏桓族を打ち破って中国北部を手中に収め(白狼山の戦い)、後漢の丞相となる。 208年、曹操は孫権・劉備連合軍を攻めるが、周瑜の火計により敗れ、飢えと疫病も合わさって非常に多くの兵士が亡くなった(赤壁の戦い)。 同年、南郡を守備していた曹仁が周瑜に敗れ、孫権の支配下となった。また、劉備が荊州の南部4郡を制圧し、曹操・劉備・孫権の三者鼎立の様相を呈した。 建安16年(211年)、曹操は馬超をはじめとする関中の軍閥連合軍を破った(潼関の戦い)。その後、曹操軍の夏侯淵らが関中の軍閥連合軍の残党を制圧した。 212年、曹操は孫権征伐の軍を起こしたが、一月余り対峙した後撤退した(第一次濡須口の戦い)。 213年、曹操は十州(司隸・兗州・徐州・豫州・青州・并州・冀州・幽州・涼州・荊州)をもって魏公に封じられた。216年、さらに曹操は魏王に封じられた。当時、皇族以外には「王」の位を与えないという不文律があったのにもかかわらず、曹操が王位に就いたということは、すなわち簒奪への前段階であった。しかし曹操は存命中は皇帝位を奪わずにいた。 215年、曹操は漢中の張魯を降伏させた(陽平関の戦い)。その後、曹操軍は数年間にわたり、益州(蜀)を制圧した劉備軍と漢中周辺で激戦を繰り広げた。 216年、曹操は自ら軍を率いて再び孫権征討に赴いた。約半年間対峙した後、孫権が和睦を申し入れたため軍を引いた(第二次濡須口の戦い)。 219年、漢中を守備している夏侯淵が劉備に討ち取られ(定軍山の戦い)、曹操自ら漢中に援軍に出向いたが、苦戦し被害が大きくなったので撤退、漢中を劉備に奪われた。また、劉備の部将の関羽が北上して曹操の勢力下の樊城・襄陽を包囲し、曹操の部将の于禁が率いる七軍を壊滅させ、曹操の部将の于禁・龐徳を捕虜とした。曹操は司馬懿・蒋済の提案に従い、孫権と同盟を結び、徐晃らを派遣して関羽を破った。(樊城の戦い) 220年、曹操は病のため死去し、武王と諡された。曹操の子の曹丕が魏の皇帝になると、太祖武皇帝と追号された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「魏 (三国)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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